2012年3月6日火曜日

写真 HCB 03 ケルテス

「アメリカの友人を介して私が最初に見た写真は、アジェとケルテスの写真だった」P26

ということで、

もうひとりのキーワーペは、アンドレ・ケルテスさんです。

ケルテース・アンドル, アンドレ・ケルテス(Kertész Andor [ˈkɛrteːs ˈɒndor], André Kertész, 1894年7月2日 - 1985年9月28日)は、ハンガリー出身の写真家。本名(ハンガリー名)は姓を先に表記するケルテース・アンドルだが、日本ではフランス語からの紹介が多いために訳者によってフランス語風にアンドレ・ケルテスと表記される場合が多い。
ブダペストに生まれ、アメリカ合衆国のニューヨークで没した。戦間期に活躍した写真家に多いハンガリー出身者たちのうちでも特に重要なひとりである。


ケルテースは、すぐれた構図(画面構成)を持った、端正な写真作品を多く残した。 ディストーションという、歪んだ鏡像によるヌードのシリーズも残している。
彼のイメージは計算された構図とデザイン、そして軽妙な面白さに特徴がありました。どこにでもありそうな普通の風景が彼の手にかかると不思議な魅力を持ったアート作品になるwiki



同じくハンガリー出身の写真家モホリ=ナギと同様に、ケルテスもまたパターンや奥行きのある写真を好みました。



小型カメラの特性を活用した、ケルテス独自のすぐれた才能に加えて、彼の作品にはもうひとつ、見逃せない大きな特徴があります。それは決して技術的には容易に分析できない特徴ですが、間違いなく重要なポイントです。

それは人生の甘美な感覚であり、世界の美しさを子どものように自由な感性で楽しみ、視覚的に表現した点です。
アンドレ・ケルテスの写真は、ブラッサイやアンリ・カルティエ=ブレッソンなどの写真家にも多大な影響を与えています。

(http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/Kertesz.html)

いやあ、素晴らしい。

明日から、写真に失われた奥行きを求めに行ってきます。

感受、感謝!

写真 HCB 02 アジェ

『アンリ・カルティエ=ブレッソン―20世紀最大の写真家』
 (「知の再発見」双書) [単行本(ソフトカバー)]
クレマン・シェルー (著) 2009

今回はHCBが
A.パリで出会ったシュルレアリスト
B.写真を再発見した時
というお話です。
HCBが愛読 したロートの「肖像論」


P21

詩人アンドレ・ブルトンのもとに集まっているシュルレアリストたちの集まりに、ロート・アカデミーに通っていたHCBを連れていったのは、詩人のルネ・クルヴェルでした。


1924年、ブルトンは『シュルレアリスム宣言』を発表。若いHCBはロートの教え+シュルレアリストたちに影響を受け、1920年代末に数少ない絵を残しています。

「当時の彼の絵には、ロートを通じた形で、セザンヌの影響がはっきりと見てとれる」p22

HCBとセザンヌ。興味深い話題ですが、ざっくりと先を急ぎます。



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P24

1928ー29年、HCBはケンブリッジに留学。イギリスから帰国すると、兵役の為、パリの北に位置するル・ブールジェの空軍基地に配属となりました。

この時期に出会った上流階級出身のアメリカ人、クロスビー夫妻の家で、HCBはクルヴェルやブルトンと再会。そして、クロスビー夫妻の家でもう一組の夫婦とも友人になります。アマチュア写真家のパウエル夫妻です。

「アメリカの友人を介して私が最初に見た写真は、アジェとケルテスの写真だった」P26



ジャン=ウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugène Atget, 1857年2月12日 - 1927年8月4日)はフランスの写真家。
フランス南西部のボルドーの近くの町リブルヌに生まれ、パリにて死去。
近代写真の父と呼ばれる。20世紀前後のパリの建築物,室内家具など失われる古きパリのイメージを撮影。wiki

 
P28 、P29に、そのアジェの影響を感じられる写真が比較掲載されているのですが、HCBの写真も、アジェの写真も素晴らしいです。今度のお休みにさっそく真似して撮影してみます。

ポルトラーノのイベントで、倉石先生が「数を撮ると確率が挙がる」という話をしていました。今も、目の前を秒速3mで「偶然」が飛び交っているのです。数を撮る。当たり前のようで、深い言葉だと思います。

感受、感謝。

2012年3月5日月曜日

写真 HCB 01 誕生

HCBを紐解く本はさまざまありますが…この本にします。
いつものようにザックリ読みますので、ザックリしている点はご了承下さいませ。

『アンリ・カルティエ=ブレッソン―20世紀最大の写真家』
 (「知の再発見」双書) [単行本(ソフトカバー)]
クレマン・シェルー (著) 2009


この本は、2004年にHCBが95歳で世を去った後に紡がれた本です。
まずは、HCBの誕生から。

P18

HBCが生まれたのは1908年。パリ郊外のシャントルー=アン=ブリ。
Chanteloup-en-Brie


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母はノルマンディー出身。父は何世代も続く綿工業で成功を収めてきた一族で、カルティエ=ブレッソンという名前は縫糸、刺繍糸、編糸などで有名なブランドでした。

こちらでしょうか。
(http://www.thiriez.org/livres/cartierbres2009.htm)

幼い頃から芸術に親しみ、イギリス人家庭教師に英語を習うアンリ少年はデッサンが好きでした。ローマ賞を受賞した画家である叔父のルイ・カルティエ=ブレッソンのことを「架空の父」と呼ぶほど慕い、その叔父の影響で絵画の道へ進むことを考えていたようです。

しかし1915年、HCBが7歳の頃、その叔父が33歳で戦死。叔父の友人の画家やCB家と親しくしていた画家に手ほどきを受けました。


p19

1926年、18歳になったHCBはバカロレアの試験に何度も落ちたあと、画家アンドレ・ロート※が開いた絵画アカデミーに入学します。

画家ロートが何よりもこだわっていたのは構図でした。彼は「黄金比」や「全体の調和」について大切に教え、生徒たちは何度も幾何学的な構成図を形成する練習をしたそうです。

HCBはこのロート・アカデミーに2年しか通いませんでしたが、ロートが書いた「風景論」と「肖像論」を生涯愛読しました。

※アンドレ・ロート(André Lhote、1885年7月5日-1962年1月24日)は、フランスのキュビスム系統の画家。ピュトー・グループに属する。


ふむふむ。

p19に、ナダールの写真スタジオで撮影された16歳のHCBの素敵な肖像写真が載っています。HCBは1908生まれ、ナダールは1910年に亡くなりました。写真の歴史の交差点です。

次回は、シュルレアリストとHCBの関係に迫ります。