「オペラ座の穴」。
90年代アメリカ映画のタイトルのようですが、
パリの地下鉄の入口についてのお話。
<登場人物>
・ギマール 新進気鋭の建築家 33歳
・カシアン=ベルナール ベルギーの建築家
・会社 パリ・メトロ会社 社長はもと土木エンジニア
時代は19世紀。
1900年4月に開催されるパリ万博まであと半年。
メトロ会社は、鉄道会社が進めていたオルセー駅のような瀟洒な駅舎とは違う、新しい時代にふさわしい、新たな駅の出入り口のデザインを探していた。
Panorama sur le site de l'exposition universelle de 1900 depuis le
1900年2月頃、ギマールが設計担当に抜擢される。
ギマールは、アール・ヌーヴォー独特の曲線を用いながら、限られた日数で工場生産できるようにデザインを標準化。
1900年7月、4月の万博開催には間に合わなかったものの、メトロ1号線開通!
当初の予定の3種類にこだわらず、ギマールは駅の機能や場所の個性に応じて、5種類以上の上屋をデザイン。
La ligne 1 à la station Bastille, en 1903.
1904年、メトロ3号線の開通に合わせて、普通ならオペラ座駅にもギマールの作品が飾られるはずだった。
しかし、パリ・メトロ会社は、オペラ座にはギマールのデザインがふさわしくない!と判断し、カシアン=ベルナールというボザール※1でローマ賞※2をとった建築家にオペラ座駅のデザインを依頼する。
その結果はどうだっただろう。
旧・オペラ座のほぼ中央に、石造りの一見なんの建物なんだかよくわからないような出入り口が作られた。
これが、「オペラ座の穴」、物語のはじまりである。
ギマール VS ベルナール!
まず、
ベルナールのデザインを擁護したのは、『フィガロ』紙だった。
ギマールのデザインを、「曲がりくねった手すり」や「歪つ」と評し、ベルナールのデザインは「シンプルで、芸術的で、趣味がよい」としている。
そして、『フィガロ』紙の一面(!)にこの記事が掲載された一週間後、『プレス』紙が、日露戦争の速報に次ぐ大きな扱いで反論する。
『プレス』紙の記事のタイトルは、「オペラ座の穴」(!)。
「先頃、オペラ座広場のメトロ工事現場の囲いが取り外された。(略)この国立音楽アカデミーの正面に巨大な穴が」で始まるギマール擁護の記事は、
「ベルナールのこの作品は、ルイ十五世様式かルイ十六世様式かはっきりしない鈍重なデザインで、オペラ座とまったく調和していない」と続く。
同じ記事内には、ギマールのインタビューもあり、メトロ会社と設計費が高い!ってもめたから、その腹いせに、会社はベルナールに頼んだんだ、なんていうようなことも言いつつ、
「オペラ座はネオバロック様式(第二帝政様式)」であり、ベルナールの様式(ルイ十五世様式かルイ十六世様式かはっきりしない様式)とは調和していないと答えている。
そして、
「しかしこの穴はなんたることか! この劣悪な穴は」
「この恥さらしの穴」
と締めくくる。
という、パリ都市景観の物語。
個人的には「調和」というキーワードと、デザインの「美」に対して、パリの人たちの真摯な情熱に敬意を。そして、オペラ座の前でその「穴」をくぐる時、歴史の「穴」であることも感受したいです。
以上、「オペラ座の穴」の物語。
文章は『近代都市パリの誕生』北河大次郎 p.207~をざっくりまとめています。写真はwikiやグーグルです。
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※1 エコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux-Arts, Ecole nationale superieure des Beaux-Arts)は19世紀パリに設立されたフランスの美術学校である。350年間以上にわたる歴史があり、建築、絵画、彫刻の分野に芸術家を多く輩出してきた。現在は建築がここから切り離されている。wiki
※2 ローマ賞(フランス語:Prix de Rome)は、芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度である。wiki