2012年1月24日火曜日

ジョッキとヤッサ

K先生が「パリは?」2月号で食べに行っているお店。


「シャトールージュのジョッキ」
La Chope du Château Rouge à Paris

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「マイムナ エ マンデラ」
Maimouna et Mandela - Barbès, Paris - Restaurants Africains
48 Rue Clignancourt, 75018 Paris, フランス



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で、

「ヤッサ」がwikiの
”セネガル料理”だと、「マリネ」と訳されていますね。
プレ・ヤッサ(鶏のマリネ)

プレ・ヤッサ
玉葱の薄切りを塩、胡椒、大量のレモン汁で和えたものに鶏肉を漬け込み、マリネ状にする。この肉を熱したフライパンで炒め、少量の水を注いで煮込む。別鍋で炊いた飯とともに食べる。

(ア…ヨダレガ…)

パッケージが可愛い「ガゼルビール」

セネガル料理:
元来この地に居住していたウォロフ族の食文化が、11世紀に定着したイスラム教の影響を受け、大航海時代以降はヨーロッパ諸国も加わった。特に1960年までこの地を植民地としていたフランスの影響は大きく、魚をファルシにする調理法などに名残を見ることができる。これら各地の食文化を受け継いだセネガル料理は、アフリカでも特に洗練されていると言われ、世界各国にセネガル料理専門店がある。wiki


「アフリカ映画の父」、センベーヌ・ウスマンも、ウォロフ族の方なのですね。ふむふむ。

   
センベーヌ・ウスマン
(セネガルの姓名は日本と同じ順序となり、センベーヌが姓。 Sembène Ousmane, 1923年1月1日 - 2007年6月9日)は、セネガルの映画監督、作家。「アフリカ映画の父」とも呼ばれた。

セネガルがフランスの植民地だった1923年、ジガンショールに住むウォロフ族の家庭に生まれる。学校でフランス語とアラビア語を学ぶが、1936年には放校処分にあう。19歳にはフランス軍に狙撃兵として召集され、第2次世界大戦を戦った。1948年、25歳のときにフランスへ渡り、マルセイユで働きながらフランス語を独学で身につけ、マルタン・デュガールなどの小説を読む。

初の短篇映画 Borom Sarret を製作後、上映装置をもって各地で上映活動を行なう。この映画は、サハラ以南のアフリカ人監督による映画としては、はじめて高い評価を受けた。また Mandabi ではセネガルの自国語であるウォロフ語を使い、好評を呼んだ。反骨精神で知られ、それ以後もアフリカ社会の問題を題材とした小説や映画の発表を続けた。
1984年の『エミタイ』上映、1989年の『チェド』上映の際に来日している。wiki


なるほど、な、わーるど!

だいぶ脱線しましたが、感受、感謝!