(http://fr.wikipedia.org/wiki/Plan_de_M%C3%A9rian)
この本のおもしろさのひとつは、
歴史的背景も書いてあること。
建物を作るのは人間ですものね。
ポン・ヌフ
様式:ルネサンス様式
年代:
お近くの駅:地下鉄1号線 サンポール、地下鉄8号線 シュマン・ヴェール
基礎データ:
主人公:アンリ4世
今日のところは、ちょっと好きなので、
いつもより楽しみながら。
____________
アンリ4世は「広場」と「新橋」を作った
まず、「広場」編。
<国王広場(プラス・ロワイヤル広場)>
・1605年 バスティーユ要塞の北西
・「国王広場(プラス・ロワイヤル。
1800年以降はヴォージュ広場)」
・この国王広場は、パリ市内で最古の「広場」である
・それ以前のパリは狭い道路がひしめく暗い町だった
・広場の目的は3つ
1.広い場所=衛生的な都市空間
2.全市民を対象とした商業の中心地
3.国王主催の都市祝典の舞台
・国王広場 1辺約130mの正方形
・広場を囲うように赤とクリーム色のツートンカラーの建物。
・このツートン建物はアンリ4世から、次のルイ13世時代にかけての、典型的フランス建築の特徴である。
(余談ですが、実は、このツートン建築、モントリオールにもあるんですよね。たしか消防署だったかなあ)
<王太子広場(プラス・ドーフィーヌ)>
・1607年 シテ島西側
・シテ島の西側の王宮の、そのまたちょっと西に中州があった。
・ポン・ヌフ建築の為に、その中州を埋め立てることになり、その中州のところに王太子広場は建てられた
・したがって、王太子広場は細長い三角形。
・国王広場と同じように、ツートンカラーの建物で囲まれていたが、今はツートンは西側にちょこっと残るのみ。
ふむふむ。
そして、アンリ4世の作ったもうひとつのもの
「新橋」。
<新しい橋「ポン・ヌフ」>
・何が新しいのか
1.石で出来ていること
2.橋の両側に建造物を作らなかったこと
・新橋の計画は以前からあった
1478年 前代のアンリ3世
ー 北に8連 南に4連アーチ
→ やっぱり家賃もとりたいから、両側に建物を建ててという昔ながらの案を採用し、北に7連、南に5連というデザインに変更
1588年__工事中断___
1598年 アンリ4世工事再開
ー 橋の両側に建物は建てない当初の案に
(これには、新橋からルーブルへの景観の配慮だという)
1604年 新橋開通
1606年 完成
1610年 アンリ4世暗殺
1614年 ポン・ヌフ中央 シテ島西端部にアンリ4世の騎馬像設置
で、p.61 に載っている地図は、
「マティウ・メリアンのパリ図(1615年)」
(!)
こ、これは、K先生が今日つぶやいている
「1615年、マテウス・メーリアン」なのではないだろうか。
お、wikiでも見つけた。一番上の地図。
(拡大コピーして部屋に貼ろうかなあ。)
それにしても、むかしの人は何故、地図の上を東にしたのだろう。
太陽との関係だろうか。
それにしても、K先生のいう「ギザギザ」ってどれのことだろう。