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Giovanni Battista di Jacopo,
dit ROSSO FIORENTINO
- Florence, 1494 - Fontainebleau, 1540
Pietà
© Musée du Louvre/A. Dequier - M. Bard
ジョヴァンニ・バッティスタ・ディ・ヤコポ、
通称ロッソ・フィオレンティーノ
(フィレンツェ、1494年-フォンテヌブロー、1540年)
《ピエタ》
1530-1540年
エクアン城
フランス
油彩 1802年に木板から画布に転写
縦1.27m、横1.63m
エクアン城のコンデ公ルイ=ジョゼフ・ド・ブルボンのコレクション、革命時に接収、1798年にルーヴル収蔵
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ルーブル美術館 louvre.fr
作品解説より 抜粋
《ピエタ》
1530年、ロッソはフォンテーヌブロー城の装飾事業のためにフランソワ1世によって招聘された。このフォンテーヌブロー派の指導者によって制作された数多くの装飾画のうち、現存しているのはフランソワ1世の回廊のフレスコ画のみである。アンヌ・ド・モンモランシー元帥によって依頼されたこの絵画には、元帥の紋章が描かれており、キリストの墓の入り口で気を失いそうな聖母の悲壮的なしぐさに縮約された、荒々しい悲劇の光景によって、このマニエリスムの画匠の普段の装飾的な創意とは明らかに区別されている。
元帥のための傑作
ロッソの《ピエタ》は、フランス革命時にアンヌ・ド・モンモランシー元帥のための居城として建てられたエクアン城で接収された。作品は礼拝堂入り口の扉の上に掛けられていた。キリストが横たわる二つのクッションの上に紋章が認められることからも、絵画は確かに元帥自身によってロッソに依頼されたものと思われる。作品は今日フランスに保存されているロッソによる唯一の宗教画である。
悲劇の演出
ロッソの創意に富みつつ苦悩の深い芸術家としての気質が、作品の際立って悲劇的な演出に現れ出ている。狭い枠の中で、人物像は前方へと押し出され、背景にある洞窟の存在はかすかに見分けられるに過ぎない。中央で聖母は苦悩を示して両腕を広げ、画面の幅全体を覆っている。聖母は一人の聖女によって支えられている。聖母の前には、マグダラのマリアと聖ヨハネに抱えられた、彼女の死せる息子の蒼白な遺骸が横たわっている。動かなくなった痩せこけた身体は、元帥の紋章と色で描かれたクッションの上に置かれている。惑乱した精神の反映(ロッソは1540年に自殺している)であるこの絵画は、イタリア人画家らによってフランスにもたらされたマニエリスムの知的かつ形態的な希求をも同時に示している。これらの特徴は、宗教画から過度に激しい表現を追放したトレント公会議で強く反対されることになる。ルーヴルの研究所における近年の研究によって、作品の下に隠された絵の形跡が発見され、そこでは実際の作品と逆方向に人物像が配されている。画家はおそらくこの最初の構想を放棄したものと思われる。一方でロッソによって覆い隠されたこの作品が、完成されたものなのか、下絵の時点で放置されたものなのか知る由はない。
ロッソと第一次フォンテヌブロー派
イタリア戦争の後に、フランソワ1世はイタリアの洗練された文化に魅了されて、自らの宮廷にイタリア人芸術家を迎え入れることを切望した。こうして彼はフランスにレオナルド・ダ・ヴィンチを招き、さらに1530年にフィレンツェのロッソをフォンテヌブローの宮殿に招き入れた。ロッソは城の装飾を手がけ、数年後にはプリマティッチオが彼に合流する。ロッソはフォンテヌブローで複雑で独創的な芸術を創り上げ、フランソワ1世の回廊において自らの精髄を見出しており、そこではストゥッコ彫刻と絵画が組み合わされて一体となった中で、洗練された寓意的および象徴的な表現形式が表れている。同様にロッソはフランスに、フィレンツェのマニエリスムに由来する長く伸びた身体、生き生きとした形状、角張った衣服の襞、鮮やかな色彩といった人物像の革新的な観念をもたらした。こういった全ての特徴をルーヴルの《ピエタ》の中に認めることが出来る。
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高階秀爾 著
「フランス絵画史―ルネッサンスから世紀末まで―」
P.27より
フォンテーヌブロー派の主調音は、
「フランソワ一世のギャラリー」におけるロッソの劇的な華麗さに続いて、
いっそう優艶でいっそう洗練されたプリマティッチオの冷たい官能性によって決定されたと言ってよい。
さぁ、今日も世界を感受しよう。
おーいえい!
〆(・愛・ ) 感受、感謝