2009年3月8日日曜日

ボクらのお父さん 「刹那」



Image représentant la vision du temps du Chronos
画像:wiki「時間」より



〆(・愛・ )

ボクは疑問に思うのです。
そもそも何故、「時間」は「左」から「右」に進む(ように表記される)のか、
言葉や文章も「左」から「右」に。ロゼッタ・ストーンもそうですか?


◆ 清岡先生のLA CLAIRIERE
tomo-524.blogspot.com


それにしても、2009年3月8日「un moment」の文章には、ボクの大好きな「清岡先生の言葉の魔法」がいっぱい繰り出されているので嬉しくなります。なんのこっちゃ? という方はボクとお茶でも飲みましょう!

いつか清岡先生に逢えたら「先生の魔法でボクはPCの前で「わー!」ってなります」って伝えたいです。
    
あぁ本日も感電なり。感謝!
 
 

ところで、 「刹那」
むずかしい話に出会ったとき、
ボクは誰かに訊くことにしています。

そして、あぁこの考えは腑に落ちるなぁ、
というものを自分のポッケに入れておいて、
また、誰かに訊くことにしています。


ということで、
今日ポケットに入れた↓「刹那」の解説はこちらです。

浄土真宗東本願寺のサイト>仏教語>刹那
tomo-net.or.jp/book/word/34_04.html「仏教語だったの?」より 抜粋


◇ 刹那(せつな)

「刹那」という言葉を耳にすると、反射的に「刹那的な生き方」とか「刹那主義はダメだよ」と、否定的な言葉が連想されます。
 
しかし、もとの仏教語としての「刹那」は「きわめて短い時間。瞬間。時間の最も短い単位」という意味で、決して否定的な意味合いはありません。
  
言い換えれば「瞬間主義」あるいは「現在主義」です。「瞬間を本当に充実して生きる生き方」と言い換えてはどうでしょうか。
 
「今(瞬間)だけよければ過去や将来はどうでもよい」という否定的な態度ではなく、
「今(瞬間)がよくなければ過去も将来もよくならない」という積極的な態度です。
  
私たちの生活の中で感じる「瞬間」が本当に充実しているとき、ひとは過去も未来も「瞬間」の中に包まれてあると感じられます。たとえば素敵な音楽を聞いて感動している「瞬間」のなかにすべてがあります。それが実感される「瞬間」でしょう。その実感からさめてしまって、「いま(瞬間)だけよければよいという考えはおかしい!」と批判するとき、人間は「考え」に呪縛されています。本当に「瞬間」が充実していれば、「瞬間」を成り立たせている過去も、そして未来も温もりをもって感じられるはずなのです。
 

  
ふむふむ、でもそれがすべてではないこともわかっているつもりです。

〆(・愛・ ) 感受、感謝!